八坂神社のご祭神は?牛頭天王とスサノオノミコトの関係をわかりやすく解説

豆知識

京都・祇園の中心に鎮座する八坂神社は、観光地としても有名な場所ですが、実は深い歴史と信仰が息づく神社です。

そのご祭神にまつわる名前として「スサノオノミコト」と「牛頭天王(ごずてんのう)」という二つの神名を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

この記事では、「そもそも牛頭天王ってどんな神さま?」「なぜ八坂神社ではスサノオノミコトが祀られているの?」といった疑問にお答えしていきます。

八坂神社とは?

京都の東山区、祇園の地にある八坂神社は、平安時代から続く歴史ある神社です。疫病除けの信仰が深く、人々の暮らしとともに歩んできました。まずは、その成り立ちを見てみましょう。

祇園社と呼ばれた歴史

八坂神社はもともと「祇園社」と呼ばれ、平安時代の貞観年間に創建されたとされます。

日本に疫病が流行した際、人々はその鎮静を願って祇園社に祈りを捧げました。この祇園社の祭神が「牛頭天王」だったのです。

疫病や災厄を鎮める神として広く信仰され、多くの人々が訪れるようになりました。こうした背景から、八坂神社は長く「厄除けの神社」として親しまれてきたのです。

なぜ牛頭天王がまつられていたのか

牛頭天王は、インドの祇園精舎に由来する神とされ、日本には仏教とともに伝わってきました。

もとは疫病をもたらす神でありながら、それを鎮める神としても信仰され、災厄を遠ざける存在として日本各地に広まりました。八坂神社もその信仰の中心地となったのです。

神仏習合の影響により、こうした異国由来の神々も日本の風土に根づいていったのです。

牛頭天王ってどんな神さま?

名前からして少し怖そうに感じるかもしれませんが、牛頭天王には日本各地に語り継がれてきた伝説があります。

インドの祇園精舎から来た神

牛頭天王のルーツは、インドの祇園精舎にあるとされます。仏教とともに中国、そして日本へ伝わり、災厄をもたらす神として恐れられながらも、祈れば守ってくれる守護神としての側面を持っていました。

つまり、「災いの主」から「災いを除ける神」へと、その性質が日本の中で変化していったのです。信仰が時代とともに形を変えていくことの一例とも言えるでしょう。

蘇民将来伝説の関係

牛頭天王の信仰と深く関わるのが「蘇民将来(そみんしょうらい)」の伝説です。

ある日、旅の途中で宿を求めた牛頭天王に対し、裕福な弟は断ったのに対し、貧しい兄・蘇民将来は快く泊めました。そのお礼として、蘇民の家系には災いが及ばないよう守ると告げたとされます。

この話は、夏越の祓(なごしのはらえ)や茅の輪くぐりの由来としても知られています。今でも「蘇民将来子孫也」と書かれた護符を玄関に貼る風習が残っている地域があります。

スサノオノミコトとの習合

日本では、仏教と神道が融合する「神仏習合」の考え方が長く続いていました。そのなかで、牛頭天王は日本神話に登場するスサノオノミコトと性質が似ているとされ、次第に同一視されるようになったのです。

どちらも荒ぶる神であり、疫病や災いを鎮める力を持つと考えられていました。こうした同一視は、庶民の間でも自然に受け入れられていき、神社の信仰対象も少しずつ変化していきました。

スサノオノミコトはなぜご祭神に?

神社に行くと「スサノオノミコトをお祀りしています」と書かれていることが多いですが、なぜ牛頭天王ではなくスサノオノミコトになったのでしょうか。

明治時代の神仏分離の影響

明治維新後の政策によって、神仏習合が禁止されました。これにより、それまで仏教的要素を含んでいた神社は、純粋な神道の形に戻されることになりました。

その過程で、八坂神社では「牛頭天王」という仏教由来の名前を避け、「スサノオノミコト」を正式な祭神とするようになったのです。神仏分離は政府主導の宗教政策の一環であり、日本中の神社に影響を与えました。

祇園社から八坂神社へ名称変更

同様に、神社の名前も「祇園社」から「八坂神社」へと変更されました。これは仏教色を排除し、国家神道の体制に沿ったものにするための措置でした。

名称こそ変わったものの、祀られている神さまの本質や人々の信仰心は、変わることなく受け継がれています。今でも「祇園さん」と呼ばれるなど、旧名の名残は地域にしっかりと残っています。

神さまとしてのスサノオノミコトの魅力

スサノオノミコトは、日本神話における重要な神さまのひとりであり、多くの神社で祀られています。荒々しい性格を持ちながらも、人々を守る力強い存在として信仰されてきました。

八坂神社でも、疫病除けや厄除けの神さまとしてその力に多くの人々が願いを託してきたのです。

天照大神との関係

スサノオノミコトは、太陽の神・天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神として『古事記』や『日本書紀』に登場します。

スサノオノミコトの荒ぶる行いにより天照大神が天岩戸に隠れるという神話は有名ですが、その後、出雲の地で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、稲田姫を助ける英雄的な一面も描かれています。

こうした神話は、スサノオノミコトがただの荒神ではなく、民を守る力強い存在であることを示しています。

人々に親しまれてきた理由

スサノオノミコトはその強さとともに、人間味あふれる神さまとして親しまれてきました。天界を追放された後も地上で活躍し、多くの地に神跡を残しています。

農業や疫病鎮静に関わる信仰が各地に広がったのは、スサノオノミコトが庶民の暮らしに寄り添う神と受け取られていたからです。身近で親しみやすい存在であったことが、全国に広がる信仰の背景にあります。

現代におけるスサノオノミコト信仰

現代でもスサノオノミコトは、八坂神社をはじめ全国の多くの神社で信仰されています。

厄除けや健康祈願、疫病退散といった願いが込められることが多く、新型コロナウイルスの流行に際しては再び注目を集めました。伝統に裏付けられた信仰が、時代を越えて現代人の心にも届いているのです。

八坂神社の祭礼と牛頭天王

八坂神社では、毎年盛大に行われる祇園祭をはじめ、さまざまな祭礼が行われています。これらの行事は、牛頭天王信仰と深い関わりを持っており、地域の文化や歴史と密接につながっています。

祇園祭の由来と意味

祇園祭は、かつて疫病が流行した際、その鎮静を祈願するために始まった祭りです。

平安時代、貞観11年(869年)に行われた御霊会(ごりょうえ)がその起源とされており、当時は全国の神々を迎え入れ、牛頭天王に疫病退散を祈ったと伝えられています。

今日でも続くこの祭りは、人々の暮らしを守ってきた神への感謝と祈りが込められた行事です。

神輿と牛頭天王

祇園祭の見どころのひとつである神輿渡御(みこしとぎょ)は、牛頭天王が町を巡り、災いを祓うという意味を持ちます。

神輿は八坂神社から出発し、京都の町を練り歩きますが、それはまさに牛頭天王の「お出まし」であり、町全体を清める儀式なのです。このように、祭礼の一つひとつに古来の信仰が息づいています。

現代の意義と継承

現代では、祇園祭は観光イベントとしても注目されていますが、その本質は変わっていません。地域の人々が連綿と受け継いできた祈りと信仰が、今も形を変えず続いていることに、文化の重みと尊さを感じさせられます。

観光として楽しむだけでなく、その背景にある信仰にも目を向けてみると、より深い理解につながります。

全国に広がる祇園信仰

八坂神社を総本社として、全国には「祇園社」「天王社」などと呼ばれる神社が数多く存在しています。これらはすべて牛頭天王の信仰に由来し、各地に根づいた形で発展してきました。

祇園信仰の拡がり

牛頭天王は、疫病除けの神として全国に信仰が広がり、特に平安時代以降、その存在は急速に知られるようになりました。

各地で病が流行するたびに、祇園社を勧請する動きが見られ、地域ごとに祇園信仰が定着していきました。こうして日本中に数百を超える祇園社が建てられたのです。

祭神名の違いと統一

明治の神仏分離政策により、多くの祇園社では祭神名が「牛頭天王」から「スサノオノミコト」へと変更されました。

同様に社名も「天王社」から「八坂神社」へと統一される傾向が強まりました。これにより、かつての仏教的色彩は薄まりましたが、信仰の核心部分は今もなお地域の人々によって守られています。

地域文化としての祇園社

祇園信仰は単なる宗教的枠を超え、地域の文化や風習と深く結びついています。

たとえば、茅の輪くぐりや夏祭りなど、季節の行事としても生活の中に根づいているのです。神社を訪れるとき、こうした背景に思いを馳せてみることで、より豊かな体験が得られるでしょう。

まとめ

牛頭天王とスサノオノミコト、そして八坂神社の関係は、信仰の歴史と文化が折り重なった奥深いテーマです。

一見すると難しく思えるかもしれませんが、私たちの暮らしの中にその影響は今も確かに息づいています。

古代から続く「災いを鎮める祈り」は、現代に生きる私たちにも通じる願いです。疫病除けや厄除けというテーマは、時代を超えて変わることのない人々の共通の想いです。

八坂神社を訪れ、その背景にある歴史や信仰に触れることで、日本の精神文化の一端を感じ取ることができるでしょう。

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